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  • Writer's pictureMichiko Akao

横笛赤尾三千子の世界「喜びの庭」


1985年、ロサンジェルスに拠を移した。パートナーは日系3世、ジョージ・コーチ。1977年鬼太鼓座ヨーロッパツアーで知り合った。イーベルシアターでお披露目演奏会。洋裁上手な義母が舞台用揚幕を縫ってくれ、兄弟や友人が裏方を手伝ってくれた。私は日本で免許を取ってからロサンジェルスでも免許を取り、アメリカで初運転。皆待っていてくれるが、家から自分で荷物を持って会場まで行かなければならない。お客さまが来てくださるか心配。一人で何でもするためにここに来たのだが、心細い。無事終えたが、反応は心もとない。

領事から演奏依頼も頂き、日米会館、カウンティミュージアム、モカ(現代美術館)など、日本から若山社中、高田みどり、ホリヒロシ他のゲストもお呼びしながら活動を続けた。

日本では「組曲般若波羅蜜多」のレコードを作り、オーケストラとの作品が三曲できて、それをもとにヨーロッパや日本での活動も続けていた。




ニューヨークでも演奏の場を求めて、ジャパンソサエティ、アジアソサエティ、カーネギーホールでの祇王(コンチェルト)、ウェイル・リサイタルホール、マーキンホールでのリサイタルといずれも評価は高かったが自分でお客様を集めるにはその社会の中に入っていかなければならない。ニューヨーク、ロサンジェルス、東京の三都市公演を企画。1990年には水炎伝説の三都市公演を実現させた。NHKテレビでも放映。しかしお客様との間には距離があり、笛は根無草のようになり、乾燥した空気は音を変え、自分の体も心も寂寥感で一杯になった。ずっと突きつけられていたアイデンティティー。日本でも自分の立場の確立は必要だった。伝統から学ぶ姿勢は大事だがそこから立ち上がらなければ何も生まれない。五年の間に時代は変わっていた。



パートナーも日本に移り、子供を授かり、仕事を続けた。しかしパートナーの仕事と私の仕事の場が重なり非常に不自由に。子供も目を離すと何が起こるかわからない。それに子育ては奇跡の連続だ。喜びを大切に、家族を中心にして演奏を続けていたが、思うようにいかなくなっていった。そんな時ツトム・ヤマシタ氏からミレニアムを京都市役所前の特設ステージで祝う会への出演依頼があった。










鞍馬の火も移されるその場所に、アイデンティティーの光が見え、2001年「三世音」という作品へと導かれた。

禅、法堂、雲龍図、サヌカイト。深呼吸のできる場を与えられ笛を吹く。その後、自分の作品も生まれ、CDに収録しながら、横笛「赤尾三千子の世界」を続けてきた。「音禅法要」は2018年熊野本宮大社、大徳寺で修め、父、母を看取り、「大谷石窟 義経」「草月石庭 姨捨」へと続き、次は「西王母」だ。

体の力がなくなっていく。それでも笛を吹けるか。人として息を与えられ、竹を通してその喜びを音にする。その幸せを音にして、機を織り続ける。


もう少し、もう少し。









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