共演をお願いした、役者、音楽家など、仕事をたくさんして称賛を浴びている方たちは、私が何も求めず、ただひたすら続けていることに疑問を持つようです。
幸いなことに、私の両親はお金に困らない環境を与えてくれました。
ピアノを習わせ、私立の学校に行かせてくれ、勉強に必要なものは買ってくれました。私はそれでも生きづらかったのです。
転校前の小学校でのイジメ、ピアノの教師からの人格否定のダメ出し、友達との付き合い方、対面恐怖症、学校から帰ると一歩も外へ出かけられませんでした。家でピアノを弾くことだけが救いでした。父は演奏を聴きに行く私を車で送り迎えしてくれました。ミケランジェリ、リヒテル、アシュケナージなどたくさんの演奏家に出会わせてくれました。先生に認められたくて一所懸命練習したつもりでしたが、演奏家は諦めて、家庭に入りピアノ教室の先生になりなさいと言われ大変なショックを受け挫折を味わいました。自分がどう生きたら良いか、何をしたら良いか分からなくなって、大学受験の進路も合わせて悩みました。それでも音楽が好きだということだけは捨てられず、音大に進みましたが、そこでもさらに将来が不安でした。笛に出会うことができ、卒業と同時に横笛演奏家になりました。何の見通しもないまま、自分で決め、横笛演奏家として生きてきました。笛を吹くのは生きるためです。鳥が囀るように笛を吹いているのです。虫が羽を震わせて鳴くように。生きている限り笛を吹き続けるのです。私の叔父も、誰も聞いてなくても、数寄屋橋で演説を続けていました。国を憂う気持ち、独立独行、これが赤尾の血かもしれません。ここまで続けてこれたのは一人でも聞いてくださる方があるからで、協力してくれる方たちがいたからで、そのお蔭でこうしてまだ生きて、笛を吹いています。ずっと続けて、倒れるまで吹き続けていく。誰にも聞こえなくても、歳とって、足を痛め入院しても、また吹けるようになったら嬉しくて笛を吹く、それが私です。
叔父赤尾敏(左)と父三郎 父は年の離れた叔父を敬愛していました。
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